第一話「ヒノバンサッサリ」


 
日本民家園は古民家の野外博物館です。高度経済成長に伴い、各地で消えつつあった伝統的な民家を保存・公開するために設立され、日本各地から25棟が移築復原されています。

 この民家園で私は民俗資料の整理や展示などさまざまな業務に携わってきましたが、そのなかで最も力を入れたのが、それぞれの家で営まれた暮らしを記録に残すことでした。一般の家庭では日々の事柄が記録として伝わることはほとんどありません。彼らの暮らしを知ろうとすれば、手がかりはその家で長年使われてきた生活用具、そして家族自身の記憶だけなのです。そのため私は聞き取りを急ぎ、移築された家のご家族を一軒一軒訪ね歩きました。世代が変わってしまえばそんな話すら聞くことが出来なくなってしまうからです。この稿ではそうした聞き取りのなかで出会った言葉を手がかりに、私自身の記憶や経験も交えながら、昔の暮らしについて書いてみたいと思います。

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 日本の伝統民家というと茅葺き屋根を思い浮かべる方も多いでしょう。ではこの「茅(かや)」とは何でしょうか。実は「茅」という植物は存在しません。屋根を葺くのに使用する植物を総称し、「茅」と呼ぶのです。地域によってさまざまな草が使われました。屋根の部分によって数種類を使い分けることもありました。しかし中心となるのは主にススキです。ちなみに「わら葺き」という言葉もありますが、麦わらは使っても稲わらを主屋の屋根に使うことはあまりありません。耐水性が大きく劣るからです。

 かつて集落の近くには「茅場(かやば)」と呼ばれる場所がありました。共有地の場合と私有地の場合がありましたが、屋根の修理や葺き替えのため、今は雑草でしかないススキの原っぱを維持していたのです。秋になると刈り取り、その場で乾燥させた上、山から担ぎ下ろして納屋や屋根裏などで保管しました。雪国では屋根に使う前に、ひと冬雪囲いに使用する場合もありました。

 このように茅は身近な場所で確保できるすぐれた屋根材でしたが、一つ大きな弱点がありました。火災にきわめて弱いことです。耐火性が全くないのは想像できるでしょうが、それだけではありません。ストローの束を思い浮かべてください。隙間だらけの上、ストローそのものが空洞です。こうした素材にいったん火が付くと、表面は消し止めても火種が隙間に残り、何時間も経ってから再び出火することがあるのです。そのため、無事に消し止めても残った茅を屋根から全て下ろしてしまったり、そこまでしない場合でも、水を入れた桶を周囲に置き、一定時間監視を続けたりしました。

 こうした屋根の下に住む人々にとって、火事はとにかく恐ろしいものでした。近くで火事があると屋根に登り、飛んでくる火の粉をはたき落としたという話はしばしば聞きます。地震の際も地震そのものより火事を恐れました。少しでも揺れると、料理が出来あがりかけていても自在鉤から鍋を落とし、その汁で囲炉裏の火を消したと北村家(神奈川県秦野市)では伝えています。

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 江向家のあった富山県南砺市上平村細島では、夜中の11時過ぎに夜警がまわりました。軒まで雪の積もる冬も含め、365日毎晩です。巡回するのは同じ組内の7軒、一晩役目を務めると次の家に当番札をまわす決まりでした。

 家の入口には大戸と呼ばれる分厚い引き戸があります。朝起きると開け、日中は開け放し、日が暮れると閉めます。この大戸には「くぐり」と呼ばれる抜け穴のような戸があり、夜間はここから出入りします。当番になると暗い夜道を一人でまわり、一軒一軒くぐり戸から入りました。

 中に入ると真っ暗な土間です。右手には厩があります。左手には水屋があり、凍らぬよう冬でも流しっぱなしの水が石造りの水舟に音を立てています。土間と床上の仕切りには板戸があり、当番はこれを開けて中に顔を差し入れ、声をかけました。

「ヒノバンサッサリー」

火の用心なさってください、というほどの意味です。どの家ももう布団に入っている時刻ですが、この声が聞こえると「アイアイ」と寝床から返事をしました。

 声をかけるのにわざわざ戸まで開けるのは、囲炉裏に火が残っていないか確かめるためです。頭上に焚き付けを乗せて暮らしているような茅葺きの集落にとって、火事を出すということはそれほどまでに恐ろしいことだったのです。

 江向家のご当主によれば、その村では冬「雪は音を立てて降った」そうです。村の外へ続く道は毎晩のように雪崩に塞がれ、子どもたちはその跡を踏んで学校に通いました。近年、温暖化で降雪量は減りましたが、同時に過疎化も進行し、今は夜警も歩いていません。


 ※写真は移築前の旧江向家住宅(昭和40年)