第三話「親起こし」


  民家の聞き取りでは、その家、その地域で行われていたさまざまな行事についても質問していきます。お盆の際の迎え火の焚き方、正月に若水を汲む場所、行事に付きものの料理。こうした習慣の大半は時代とともに省略され、忘れられていきますが、中には比較的最近までこまごまとした約束事を残していたものもあります。その筆頭が葬送関係の儀礼です。

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 埋葬方法として一般に知られているのは火葬と土葬でしょう。聞き取りに入ると、昭和の初めごろまで土葬だったという話をよく聞きますが、浄土真宗の盛んな地域では古くから火葬だったところが少なくありません。

 山下家のあった岐阜県白川村の長瀬集落でもやはり火葬でした。集落といっても戸数は3戸です。この地域では小さな集落が点在していましたが、2戸しかない集落にも火葬場がありました。雪が深く、かつて冬は陸の孤島だったことも理由のようです。ただし、火葬場といっても施設があるわけではありません。耕地にならない河原近くや、森の陰の窪地などにただ場所が区切られていただけです。係の者もおらず、火をつけるのも家族や身内でした。焼くときはまず薪を敷き、上にお棺を置きます。さらにその上にわらをのせ、最後にぬれたムシロをかぶせます。お棺は現在のような寝棺ではなく、中で座らせる座棺です。置くときはこの座棺を必ず横倒しにします。焼けていくうちに遺体が伸び上がるため、こうしておかないと飛び出してしまうからです。

 富山県五箇山の野原家のあった集落では、やぐらのように薪を組んで火をつけました。息子は夜、必ず様子を見に行き、手足が出ていればあらためて火に入れてきたといいます。これを「くずし」といいました。翌朝、骨を拾いに行きます。小型の骨壺に形あるものだけを収め、残った灰は処分します。そのまま埋めたり、クワを使って崖から掻き落としたり、川へ流したりというように。子どもたちはよく肝試しをして遊びましたが、こうした場所には誰も近付きませんでした。

 子どもが怖がったといえば、遺体を焼く煙もひどく恐れられました。同じく五箇山の江向家のあった集落では火葬場のすぐ脇を街道が通っていました。風向きによっては煙や臭いが道にかかり、子どもたちは通り抜けるのも怖がったといいます。忌み嫌ったのは大人も同じです。野原家の集落では、普段は火葬でしたが養蚕時期だけは必ず土葬にしました。蚕の成育に火葬の煙が影響を及ぼすのを恐れたのです。

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 土葬の場合、大変だったのが穴掘りです。重労働の上、どこに誰が埋まっているかはっきりしないため、古い遺骨を掘り当ててしまうことも少なくありませんでした。村によっては負担を分け合うため、「穴掘り帳」という記録を作り、誰のときは誰が掘ったか書き留めていることもあります。掘ってもらった家では風呂に入れたり着替えを用意したりした他、精進落としや法事の席では穴掘り役を必ず上座に座らせました。こうした「見返り」もあったので、酒好きには穴掘り役を喜んだ者もいました。佐々木家のあった長野県佐久穂町にはこんな話も残っています。この集落では飲兵衛が死ぬとお棺に一升瓶を入れてやりました。新しく穴を掘るとこうした酒が古い棺桶とともに出てくることがあり、酒好きな人はこの墓場の酒を飲んでしまったといいます。

 お棺を穴に下ろすときは縄を使います。そして身近な人から順に、立ち会った者全員が土をかけ、最後に穴掘り役が埋め戻して小さな土饅頭を築きます。鈴木家のあった福島県福島市松川町ではこの上に長い竹竿を立てました。四十九日までは墓参りに行くたびに、この竿を上下させて棺桶を突き鳴らすのです。「お参りに来たよ」という意味だといいます。また太田家のあった茨城県笠間市の集落では、親を送った息子は翌朝必ず暗いうちに出かけ、盛り上げた土を整えました。これを「親起こし」といったそうです。

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 個人的なことですが、私は遺骨を見たことがありません。祖父母のときも、そして父と母のときも、火葬場には行きましたが骨揚げのときは席を外しました。喪主がいないというおかしな状況だったでしょうが、あの人はお骨を見られないひとだからと、周囲の者も近ごろは何も言いません。私のなかにはおそらく、火葬場の煙を恐れた子どもと同じ感覚が残っているのでしょう。人は自らの手で親を焼き、あるいは埋めることで、その恐れのむこうにあるものと向き合ってきたのかもしれません。だとすれば、私はその機会を永遠に失ってしまったことになりますが、しょうがないねと、母などは笑ってくれているような気もします。


 ※写真は移築前の旧太田家住宅(昭和42年)