第二話「石の上にうち建てて」

  川崎市多摩区登戸から移築された清宮家には、次のような言い伝えがあります。

 「富士塚の伝左衛門さんでは石の上にうち建てて、風が吹いたら吹っ飛びやしないかって、下の方から弁当持って見に来た」

 「伝左衛門」とは清宮家当主の代々の名前です。この家は間口七間半、奥行四間半と園内では比較的小規模な住宅ですが、この伝承から、江戸初期の建築当時は最新の工法で建てられた「高級住宅」だったことがわかります。石の上にうちを建てるとは、礎石に柱を立てる石場建てのことです。そしてそのような建て方をした家は、多摩川下流からわざわざ見に来るくらい、当時珍しかったことを示しているのです。

 石場建ての礎石部分を見ると、一見、石に穴を開けて柱を立てているように見えます。それほど柱と礎石とのあいだには隙間がありません。しかし実際は逆に、柱の底面を石の凹凸に合わせて削っていくのです。この技法を「光付け」といいます。柱と礎石の密着具合を確かめるには石灰を使います。これを石に塗って柱を乗せると、削れていない部分に石灰が付着するので、そこをさらに削ぎ落としていくのです。歯の噛み合わせを調べるのに、歯科医がチャコペーパーのようなものを噛ませて様子を見るのと同じです。ただ、この光付けは手間がかかるため、安普請の家では行いません。ではそのような家はどうするか。地面に穴を掘り、柱を直接埋めるのです。この柱を「掘建て柱」といいます。ほったて小屋の「ほったて」とはこのことであり、先に紹介した伝承は周辺がまだ掘建て小屋ばかりだったことを示しているのです。

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 民家園を含め、各地で保存されている古民家の多くは名主クラスの家です。一般の人々が住んでいた掘建て小屋は、柱が根元から腐るためそれほど長持ちはしなかったからです。現在、格差拡大が問題となっていますが、どんな土地にも格差はありました。むしろ今よりはるかに固定化したものだったと考えていいでしょう。

 房総半島の九十九里浜で網元をしていた作田家は、集落で婚礼があっても招かれることはありませんでした。作田家の方も婚礼に招くのは親族だけで、集落の家を招くことはありませんでした。葬式も同様です。集落で不幸があっても作田家が手伝うことはありませんでしたが、作田家で不幸があると集落を挙げて手伝いに出ました。家格が違ったのです。

 私が訪ねた東北のある土地は、30戸に満たない山奥の集落でした。血のつながりのない人は少なく、世代をさかのぼるとどこかの代で嫁のやりとりをしていました。病気になれば皆が知り、町に出れば珍しいものを買ってきて配り合いました。しかしそうした中でも、経済的に豊かな家とそうでない家はありました。たとえばこんな話が残っています。養蚕の盛んだったこの集落では猫を飼う家が少なくありませんでした。蚕がネズミに喰われるのを防ぐためです。猫のエサ場は囲炉裏のある部屋に設けられていましたが、誰かの家で寄り合いがあると、貧しい家の人はこのエサ場のそばにいち早く座ったといいます。人の家の猫のエサに手を出すほど、家によっては腹を空かせていたのです。

 また別の土地の話。神奈川県山間部のある集落では、かつて風呂のない家ではよその家に入りに行きました。これを「もらい風呂」といいます。しかしある人は風呂をもらいに来た上、積んである薪をこっそり持ち帰りました。昔は鍵などかけないので、留守中に上がり込み、米びつをすくっていくこともありました。誰の仕業か皆わかっていましたが、何も言わなかったといいます。その貧しさを知っていたからです。

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 聞き取りでは、あらかじめ作成した間取り図を広げて話を聞いていきます。まず部屋の名前、そして使い方。このとき、土地の言葉は片仮名で記録します。漢字の通常の読みと土地の発音は必ずしも一致しないからです。たとえば流し場のことを「水屋」といいますが、これを土地によっては「ミンジャ」と発音し、別の土地では「メージャ」と発音します。こうした地域の言葉遣いそのものが貴重な資料なのです。

 聞き取りを続けていくと、「あ、話してしまった」という表情が相手の顔に浮かぶことがあります。格差や差別のような、微妙なことがらに踏み込んでしまったときです。こうしたとき、熱心な研究者ならさらに質問を重ねるのでしょう。しかし私は、手触りのようなものでそんな気配を感じると、そのまま話をそらしてしまいます。後味悪い思いをさせたくないこともありますが、口ごもるということ自体に真実はあるような気がするからです。

 お礼を言って家を出ます。目の前にはその人が生涯見つめてきた風景がひろがっています。


 ※写真は移築前の旧清宮家住宅(昭和41年)