第四話「オニヤク」

  旅をして思うのは、どんな土地にも人が住んでいることの不思議です。こんな寂しいところになぜ。こんな気候の厳しいところにどうして。実際お住まいの方にははなはだ失礼な話ですが、ひどく不思議に思ってしまうのです。

 そうした思いを最も感じるのは豪雪地帯を訪ねるときです。実際に訪れるのは雪とも寒さとも無縁の時期でも、冬の苦労を聞くたびに頭の下がる思いがします。

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 合掌造りの屋根が急なのは、雪に対応するためとされています。しかし雪下ろしをしなくてよかったわけではなく、何もしなければ一冬で倒壊することもありました。雪を下ろすにはまず棟に登らなければなりません。この屋根は横から見ると長方形をしていますが、対角線上に道を付け、斜面を斜めに登っていくのです。雪が茅に食らいついているので登ることは比較的容易でしたが、下で火を焚くとその熱で雪が雪崩を起こすことがありました。これを「マキオトシ」といいます。下敷きになって怪我をする人も少なくなかったといいます。

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 富山県南砺市利賀村では買出しに出ることを「ボッカ」と言いました。冬は行商の足も絶えるため、数軒の代表が町まで行き、品物を担いで帰るのです。粕漬けや干物など日持ちするものばかりではありましたが、これでやっと魚も食べることができました。道のりは往復7時間から10時間。私が話を聞いた野原家の方は女性ですが、中学生のころにはボッカに行ったといいます。吹雪になると峠越えは本当に大変だったと、おだやかではありますがあまり思い出したくはなさそうな口調で語ってくださいました。その後、この村にも店が出来ましたが、冬場に物が無くなるのは同じでした。峠までバスが通るとそこまでは車で物資を上げることができましたが、そこから村まではやはり人の手だけが頼りだったといいます。こうした暮らしが冬はずっと続いていました。

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 山形県鶴岡市、菅原家のあった羽黒山麓の集落では二階から出入りしなければならないほど雪が積もりました。冬、低学年は近くの分教場に通いましたが、四年になると冬のあいだも一里ほど離れた本校に通わなければなりませんでした。中学一年の女子が先頭、男子が一番後ろにつき、そのあいだに小学生を挟んで登校します。道は一本道ですが細く、少しでも端によると雪にはまってしまいますので、一列になり、前の子の足跡をなぞって歩きます。雪にはまったり、手足が濡れたりすると凍えてしまいました。四年生ぐらいの女の子は寒さに耐え切れずメソメソ泣き出してしまいます。手袋はしていても今のように良い素材ではありませんので、雪が浸みると紫色になるほど指先が冷えてしまうのです。指先が冷たくなると、子どもは口に入れてなめてしまうものだそうです。そうすると一時良くてもますます凍えてしまいます。泣き出す。立ち止まる。歩けなくなる。すると年長の子どもが近寄り、その子の手をパシッと叩きました。こうするといくらか血行が良くなり、また歩くことができたのだといいます。この年長の子どものことを「オニヤク」といいました。

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 北陸のその村では、小学校を卒業すると家を離れ、中学の寄宿舎に入りました。ある少年は冬休みには家に帰るはずでしたが、正月になっても帰ってきません。家族は心配しつつも町で正月を迎えたのだろうと思っていました。一方、中学の方は三学期が始まっても登校しない少年を、家に帰ったまま休んでいるものと考えていました。行方不明になったことがわかったのは春になってからです。しかし、どの道を帰ったのか今さらわかるはずもなく、六月になってようやく、炭焼きの男が少年のなきがらを見つけました。そこは村のほんの目と鼻の先であったといいます。

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 なぜそこに住んでいるのか。尋ねればおそらく生まれ育ったからと答えが返ってくるでしょう。ではその親はなぜそこに住み着いたのか。あるいはその先祖は。そこまで問われて答えられる人はほとんどいないのではないでしょうか。そしてそんな問いを自らに向けることもなく、一つの土地に人は住み続けるのです。どんな厳しい風土にもよろこびを見出して。

 「家のそばに街灯があったんです。冬はその明かりの中を雪の流れていくのが見えるんですよ。毎年降りはじめは興奮して眠れなくて、夜中何度も起きてこの雪を見てました。うれしくてうれしくて仕方なかったですよ。」

 豪雪地帯である五箇山で生まれ育った江向家のご当主は、ほんとうに嬉しそうに語ってくれました。


※写真はダムに沈んだ五箇山の桂集落(昭和43年頃) 右手の四角い建物は分教場。