第五話「これがくるぞー」

  私自身はお酒とは縁がないのですが、聞き取りをしているとそれは一つの食文化であり、地域によっては生活必需品であったことがよくわかります。今回はいくつかお酒にまつわる話をご紹介したいと思います。

   * 

 岩手県紫波町の工藤家では、車のない時代は客が来ると縁側に座らせ、何はともあれまず一杯お酒を出しました。おおかたの人は喜んで飲んでくれましたが、なかにはいやいや飲めないという人もいました。しかし勧めるのを一度で止めるのは失礼に当たるとされ、三度四度と一生懸命勧めるのが習いでした。お酒は家ごとに味が違い、ここの家はうまいとか酸っぱいとか、客の方は利き酒気分で帰ったといいます。

 長野県伊那市の三澤家は人の出入りの多い家でした。客たちにはやはりお酒を振る舞うことが多く、囲炉裏にはお酒を入れた大きな鉄瓶がいつも掛けてありました。この家では毎年11月になると、200軒もの小作人たちが連日入れ替わり立ち替わり年貢を納めに来ました。米倉の前で俵を下ろすと、彼らは空の牛車をまわして帰っていくのですが、このとき主人は四斗樽を用意し、茶碗で酒をふるまったといいます。

   * 

 寒い土地ではお酒は「暖房用具」でもありました。富山県五箇山の野原家では、寒い日には湯飲み茶碗でお酒をまわし飲みしました。このまわし酒には子どもも手を付けてよいことになっていました。子どもも寒いからです。このようなことはどこの家でも当たり前で、父親の代理で寄り合いに出たりすると、小学生でも飲まないわけにいかなかったといいます。

 この傾向はお酒を自宅で仕込んだことと関わっています。山形県鶴岡市の菅原家では、麹と米をまぜて蒸かしたものを、囲炉裏の上にあたる二階のすのこにまず一晩置きました。こうすると囲炉裏の熱で発酵が始まり、甘くて非常においしいものができます。これを弁当箱によそうと大人から子どもまでみんな大喜びで食べましたが、アルコール分がないわけではないので小さな子どもは顔を真っ赤にしていたといいます。本格的に仕込んでからも、日が浅ければ甘いため子どもたちも甘酒がわりに飲みました。多少苦くなっても好きな子は飲みました。そんな子を見つけると「この子はお酒が好きだー」といって大人たちは笑い合いました。

 ここでお酒というのはいわゆる「どぶろく」です。仕込み方は地域によって少しずつ違いますが、菅原家の様子を紹介しましょう。仕込むのは冬です。豪雪地帯では冬場の楽しみでもありました。原料はうるち米です。農家は自家製の米を使い、万石通しという道具で選別を繰り返し、残ったものを使いました。これを「二番米」「下米」といいます。品質が悪く売り物にはなりませんが、どぶろく作りには良い米よりも適していたといいます。どぶろくの味は発酵を急ぐときつくなり、「じわじわ」やると甘く、下手にやると酸っぱくなります。酒づくりは女性の仕事であり、代替わりのときは姑から嫁へと仕込み方も受け継がれていきました。

   * 

 明治に入り酒造税法が制定されると、こうした自家醸造は禁止されました。しかし長年の習慣がすぐに変えられるはずもなく、村々ではこっそり続けることになります。それでも仕込むとじきに当局の知るところとなったのは、店の酒が売れなくなるからです。

 税務署の摘発を「サケアラタメ」といいました。来るのはまだ雪のあるころ、調査官はカンジキ履きです。摘発の情報は他の集落からすぐに伝わりましたが、その伝達には電話や有線放送がいち早く使われました。有線の場合はあらかじめ査察が入ったときの曲を決めておき、その曲が流れると家にいるお年寄りたちが両手のひとさし指を頭上にかざし「これ(鬼)がくるぞー」と声をかけてまわりました。知らせが入るとどぶろくを山へ隠しに行きましたが、ものは隠せてもにおいは隠せません。しかも足跡が雪に残るため見つかることが多かったようです。捕まると没収された上、罰金を取られましたが、捕まる前にお酒の入っている一升瓶を割ってしまえば罰金だけは免れることができました。ある人は調査官に追われて家を飛び出し、畑に入ってカボチャで割ろうとしました。ところがカボチャの方がへこむばかりで瓶はいっこうに割れず、結局罰金まで取られたという話が残っています。

 もともとどぶろく作りが禁止されたのは、醸造業者を保護するためだったといわれています。業者を保護して取りやすいところから取る、これもこの国の古い「伝統」のようです。


※写真は菅原家の囲炉裏端(昭和42年)