第六話「三寸流せば清の水」


  水のことを書いておきたいと思います。水道以前の生活用水といえば、思い浮かぶのは井戸でしょう。しかし井戸といってもさまざまです。土間に設けて水道のように使えた家もあれば、「もらい水」といって井戸のある家に汲みに通う家もありました。

 水を汲んでもそのまま使えるとは限りません。福島県福島市にあった鈴木家の井戸はカナケ(鉄分)の多い「シブミズ」でした。そのため「砂通し」といって、砂で濾過して使っていました。砂は川のものを使いますが、シブが詰まると水が通らなくなるため定期的に入れ替える必要があります。「通した水などもったいない」といって、顔などは汲み上げた水で直接洗いました。洗ったあと顔を拭くので、手ぬぐいはいつも鉄分で黄色く染まっていたといいます。川崎市多摩区登戸にあった清宮家の井戸は多摩川の水位に応じて水量が変化しました。洪水時には手でさわれるくらい水が上がったといいます。この家では水に落ちた虫を喰わすため、井戸の中で鯉を飼っていました。

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 山に近い土地では、井戸を設けず、湧き水を利用していた家が少なくありません。

 山形県鶴岡市松沢では、どの家の両脇にも池がありました。図式的に言ってしまえば、山の斜面に沿って池と家とが交互に並んでいたのです。私が聞き取りをした菅原家は一番上にあった家ですが、この家の上手の池には湧き水が流れ込んでおり、生活用水は全てここから引いていました。池が主屋より一段高く、樋を使えば直接引き込むことができたのです。樋には栗の木を使います。栗は堅くて加工は難しいのですが、水に強いため板屋根などにも使われます。この栗の丸太に、チョウナと呼ばれる小型のクワのような刃物で溝を彫ります。これをY字型の支柱に載せ、壁を突き通して台所に水を引いていました。水は365日流しっぱなしです。食器を洗った水や風呂の水など、使った水は下の池に落とします。下の家はこの池から水を引き、使った水をまたその下の池に落とします。このようにして、5、6軒の家が一つの湧き水を順繰りに使用するのです。この水を「黄色い水」といいました。一度使った水という意味です。しかし勢いが強く、途中池を通過することで、流れはいつもきれいだったといいます。「三寸流せば清の水」、そんな言い方をしました。ただし、おしめなどを洗う場所は一番下流に設けられ、また肺病など伝染病を出すとその家は水を止められました。こうした家はその間、バケツで水を運びました。

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 井戸もなく、湧き水もない土地はどうしたでしょうか。用水路や川へ汲みに通うのです。

 都心に近い神奈川県でも、昭和40年代まで川で水を汲む家が残っていました。清川村にあった岩澤家では、顔を洗うにも歯を磨くにも川まで下り、調理や洗い物は水がめの水で済ましました。水汲みは子どもの仕事です。毎朝一番に汲みに行き、学校から帰るとまた川へ行きます。川べりには「洗い場」が家ごとにあり、岸を石で固めていました。飲み水を汲む場所が、洗濯する場所でもあったのです。水を運ぶときは天秤を使います。水がめや風呂を満たすには何往復もしなければなりません。晴れていればよいのですが、雨が降ると川が濁る前に済まさなければいけないため、とても忙しかったといいます。

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 「そのお坊さんが、なかなか偉い坊さんだったらしいんです。お茶を汲むのに、小坊主に『お茶の水を多摩川から汲んで来い』つって、『北側の水でなくっちゃいけない』って言うの。そいで小坊主、川渡るの億劫なもんで近くの水を持って行ったら、沸かすが早いが飲まないんですよ。『これは、南側の水だろう』って見破った。

 北側っていうと調布、東京側ですね。渡しか、さもなければ足で越して行くんです。それはやっぱり小河内の水が。奥多摩湖ですね。あの水が多摩川をずーっと来ていて、北側を流れて来るっていうんですよ。南側(川崎側)はほら、いろんな、五日市だとか高尾山の方から流れ出して来るでしょ。ああいうのが南側を流れて来るからね。一番北側を流れてくるのが小河内だって。小河内でも湯があったらしいですね、鶴の湯とかなんとか。それがとても効くって言ってね。私たちの子どものときには怪我をするとね、多摩川の北側行って洗ってこいって言われたの。で、北側で傷を洗うとね、化膿しなかったです。だから、北側の水が一番うまいんですって。」

 多摩川の菅の渡し場で船頭を務めた人の話です。


 ※写真は移築前の旧菅原家住宅(昭和42年)