第七話「ウマノハカドコ」


  犬や猫を飼う家は昔も少なくありませんでした。囲炉裏の土間側を「キジリ」といいますが、福島県福島市の鈴木家ではこのキジリまでは犬も上がってよいことになっていました。犬もそれ以上は上がらず、囲炉裏の柵に顔を当て温まっていたといいます。前にもふれましたが、猫はネズミ捕り用です。ネズミが蚕を食べるので、養蚕農家ではよく飼われていました。土地によっては猫の絵を描いて蚕室に貼ったり、猫神と称する石仏を祭ったりしたところもあります。昔から気ままな生きものではあったようで、山形県鶴岡市の菅原家では板戸の隣に「猫穴」という四角い穴を設け、自由に出入りさせていました。

 鳥を飼う家もありました。子どもたちは竹でカゴを作って小鳥を飼いました。大人にも熱中する人がいて、茨城県笠間市の太田家では、季節になると早朝から山に入り、鳥もちを使ってメジロやウグイスなどを捕っていました。ウグイスのかごには十二月から2週間ほど布をかけ、茶の間に置いておきます。すると毎年、春と勘違いして正月に鳴いたといいます。

 しかし、家庭で最も飼われた鳥は無論にわとりです。卵は家でも食べましたが、良い値が付いたため買い付けに来る人に売ったり、行商が運んでくる商品と交換したりしました。そして、卵を産まなくなれば貴重なタンパク源ともなりました。食べたあとの骨も土間のわら打ち石でたたき、団子にして食べたと多摩区登戸の清宮家の方が教えてくれました。

 ヤギは乳を取るために飼われました。岐阜県白川村の山下家では、母乳不足を補うのに飼っていたことがあったそうです。ヒツジは毛糸を取るために飼われました。毛を刈る業者が毎年まわってきて、色見本を示して注文も取っていきます。このとき糸の色と太さを指定しておくと、その通りに仕上げてくれました。

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 昔の家でもこのようにさまざまなものが飼われていましたが、農家にとって最も身近だったのは牛と馬でしょう。お盆の折、先祖に供えるのがナスとキュウリの牛馬であることも、それをよく表しているように思います。どちらも田畑を耕すトラクターであり、荷物を運ぶトラックであり、糞が貴重な肥やしであったことからいえば肥料製造工場でもありました。牛馬のどちらを重視するかは地域によって異なりましたが、両者を使い分けた家もあります。大きい田や段のない畑は馬に、小さい田や段のある畑、それから傾斜のきついところは牛にやらせるのです。牛が山も登れるのに対し、馬は傾斜のきついところでは動けませんでした。また小さい田の場合、馬では足が速すぎてきちんと耕せなかったといいます。

 いずれも一家にとって間違いなく財産でした。ただ各地で聞き取りをすると、格別大切にされていたのが馬だったようです。

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 岩手を中心に、真上から見るとL字型をした民家が分布しています。これを「曲屋(まがりや)」といいます。90度に突き出しているのは厩であり、大きな屋根の下に馬と人がともに暮らしていました。寒い土地ではこのように主屋の一角に厩を設けることが多かったのですが、これは馬も寒いからです。

 岩手県紫波町の工藤家では2頭の馬を飼っていました。広い土間をはさんで厩が囲炉裏と向き合う形になっており、この囲炉裏ばたに設けてあった寝たきりのお婆さんの寝床からは馬の姿がいつでも見えたといいます。

 土壁の家でも厩だけは板が張ってありました。後ろ脚で蹴ったり、尿をかけたりするからです。地面は深く掘り下げてあります。わらを敷いて馬に踏ませ、堆肥にするためです。家によっては掘り下げた表面に傾斜が付けてあり、馬の尿が1カ所に溜まるようになっていました。汲み上げてこれも肥料にしたのです。土間には馬用のかまどがありました。冬場は飲ませる水を必ず温めてやった他、飼葉をやわらかく煮てやることもありました。このかまどの火入れとまぐさの刈り取り、それが朝一番の仕事でした。エサも行事の折は奮発し、たとえば大晦日の夜は小麦をやったりしました。

 お産のときは、当主は子馬を自分で引っ張り出しました。難産のときや病気の折は伯楽を呼ぶこともありました。「伯楽(はくらく)」とは馬医のことです。伯楽は様子を診て薬を飲ませたりしましたが、それでも昔は死なせてしまうことが多かったといいます。この家の裏山、リンゴ畑のあるあたりに馬の墓地があります。村で馬が死ぬと、皆ここまで運び上げて葬りました。この場所を「ウマノハカドコ」といいます。埋めたあとにはわらで作った馬を立て、豆を煮て供えてやりました。馬に特別名を付けることはありませんでしたが、栗毛なら「クロ」、赤毛なら「アカ」と呼んでいたそうです。


 ※写真は移築前の旧工藤家住宅(昭和42年)