第八話「木舞を掻く」


  古い民家を訪れることがあったら、てのひらでそっと壁にふれてみてください。ざらざらとした手ざわり。一面に走るひび。土間の暗がりに目が慣れれば、土に練り込まれた無数の草も見えるかもしれません。

 土壁とは名の通り土の壁です。ただ、どんな土でもいいというわけではなく、粘土質の土を使います。関東周辺では産地であった荒川沿いの地名を取り、こうした土をよく「荒木田(あらきだ)」と呼びます。壁土を採る場所はその土地その土地で決まっていました。岩手県紫波町の工藤家では、川の上流にある崖の崩落箇所で採っていました。赤土の採れるこの場所は長いあいだに削られ、深い谷になっていたといいます。このような土に稲ワラを刻んで練り込み、水を掛けて半年から1年寝かせておきます。するとワラの繊維だけが残り、乾燥しても崩れにくくなるのです。

 土壁の芯には格子状の下地が入っています。割り竹を細い縄で編み上げたもので、竹の少ない東北などでは代わりに細い木の枝や葦も使います。この下地を「木舞(こまい)」といい、木舞を取り付けることを「木舞を掻く」といいます。壁を塗る左官とは別に、かつては木舞掻き専門の職人もいました。この木舞の両面に寝かせておいた土を塗ります。まず家の内側から。ついで外側から。壁の仕上げは建物のグレードによって異なり、納屋などは木舞の上に1回塗って済ませることも少なくありません。こうした壁を「荒壁(あらかべ)」といいます。この程度の場合には職人を呼ばず、家族や近所の手だけで塗ることも珍しくありませんでした。少し良い建物の場合は、この上に砂なども混ぜたきめの細かい土を塗っていきます。これを「中塗り」といいます。さらに良い建物の場合、この上に白い漆喰(しっくい)を塗ります。漆喰とは、簡単に言えば石灰にのりを混ぜたものです。これを使って、ちょうどチョコレートケーキのように表面をコーティングしていくのです。これを「上塗り」といいます。どのような仕上げにしても、塗り重ねるのは前の土が乾いてからです。しかも、土の水分が凍る冬場は作業ができません。手間も施工期間も、現在のプレハブ住宅とは比べものになりませんでした。白壁の土蔵は美しいものですが、こうした壁は漆喰を何度も塗り重ね、コテで磨き上げたあと、最終的には表面を素手で磨いてつやを出していきます。完成まで3年ぐらいかかることも少なくありませんでした。

 土壁とともに古民家でよく見かけるのが板壁です。ノコギリやカンナの普及していなかった時代、板を作るのは手間が掛かりました。保温性も耐火性も土壁の方が上です。それでも雪の深い地方では板壁にすることが多かったようです。土壁では染み込んだ水が凍結して膨張し、崩れやすくなるからです。

 福島県福島市の鈴木家で見た薪小屋はきわめて簡素な板壁でした。柱と柱のあいだに板が横に打ち付けてあるのですが、この板が長方形ではなく、木の幹の形そのままだったのです。雪で折れた山の木を曳き下ろし、製材したものだといいます。形が不揃いだと隙間ができますが、薪を乾燥させるには風通しが必要で、かえって都合がよかったそうです。

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 最近、長塚節の「土」を読みました。文学史に名を残す作品ですが、明治期の農村の生活記録としても道具の使い方や家の構造など興味深い点が少なくありません。以前紹介した、礎石を使わずに穴を掘って立てる掘立て柱も登場します。茅葺きの家が火事で焼け、新しく小屋を作る場面です。主人公は焼けぼっくいを集め、地面に立てて柱とします。そして、土壁にする余裕はないため、壁を草で作っていくのです。

「そこらこゝらの林の間に刈り残された萱や篠を刈つて來て、乏しい藁と交ぜて垣根でも結ふやうにそれを内外から裂いた竹を当てゝぎつと締めた。」(長塚節「土」)

 このような壁を「茅壁(かやかべ)」といいます。ここでは仮住まいのためいかにも貧しげですが、恒常的な住宅として使う場合には屋根と同じように分厚く周囲を囲います。平たく言えば雪囲いのようなもので、雪や寒さにも強かったのです。現役の住宅は国内にはありませんが、大阪の日本民家集落博物館には茅壁の家(国指定重要文化財旧山田家住宅)が保存されています。

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 ここまで書いて、自分の実家が土壁だったことを思い出しました。ポスターを貼るにも画鋲は効かず、両面テープも使えません。古臭いこともあって当時は嫌でしたが、思えば今住んでいる賃貸のビニールクロスよりずっと手がかかっていたのです。実家はその後リフォームしましたが、父も母も死んでもう住む者もいません。しかし新建材を剥がせば今も、古い土壁が眠っているはずです。


 ※写真は鈴木家の薪小屋(平成21年)