第九話「ミゴノクチキキ」

  子どものころ私が寝起きした部屋には神棚がありました。あるとき、親の留守を見計らってこの神棚を勝手に壊し、壁から取り払ってしまいました。いま考えるとひどいことをしたと思いますが、そのあと叱られたおぼえがありません。母は合理的な人で、神仏など端から信じていないようなところがありました。父は母ほどではありませんでしたが、手を合わせる姿などはやはり見たことがありません。そうした家に育ったので私も信心とはほど遠いのですが、全く縁のない故か、民俗学の中でも特に民間信仰が主な興味の対象となっています。

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 奈良県奈良市の井岡家では、ご飯は必ず一番に神仏に供えました。炊きあがるとまず器によそい、お膳にのせて仏壇に供えます。このとき「どうぞ召し上がってください」と言います。それが済むと次は神棚です。供えるときは毎度毎度脚立を使います。この家には神仏を祭る場所が九カ所あり、元日は起きるとすぐ家族全員で拝んでまわりました。このとき短いロウソクを灯していくのですが、火が消えぬうちに全てをまわるのが決まりになっていました。途中で消えるとやり直しになるため、「ロウソクつけたわよ」と、声をかけながらまわったといいます。

 神奈川県清川村の岩澤家の庭先には小さな祠があります。その脇をこの家では「カミサマの通り道」と呼んでいました。ここを進むと高台にヤマノカミサマの祠があり、そのカミサマが上り下りする道なのだといいます。ここを通れるのはカミサマだけで、家族がお参りに行くときに使うことはありませんでした。川崎市多摩区で聞いた話ですが、昔は神社でも、参道の真ん中はカミサマが歩くから左側を歩けといわれていたといいます。

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 もう四十年近く昔になりますが、恐山の宿坊に泊まったことがあります。青森県下北半島の中央にあるこの山は死者の帰る場所とされ、七月の大祭にはイタコが集まることで知られています。私が訪れたのは季節外れでしたが、賽の河原と名付けられた荒涼とした風景の中で、ひとつの家族がイタコを囲んでいるのに出会いました。イタコとは口寄せを生業とする多くは盲目の巫女です。求めに応じて死者の魂を我が身に乗り移らせ、さまざまなことを語って聞かせます。少し離れたところから見ていると、地べたに座ったイタコは前後に身を揺らしながら唄うように語り、家族は手を合わせてその言葉に聞き入っていました。

 こうしたいわゆる霊能者や祈祷師のことを「カミサマ」と呼ぶ土地も少なくありません。山形県鶴岡市の菅原家では毎年カミサマのところへうかがいを立てに行きました。これを「ミゴノクチキキ」といいます。「ミゴ」は巫女です。基本的には年に一度でしたが、家族が病気になったりすると、何かあるんだろうかと聞きに行くこともありました。電話で予約して出かけていくと、祈祷してくれたり、いつごろこういうことがあるから気をつけろ、などと占ってくれたりしたそうです。こうした人々が土地には何人かいて、「どこどこのカミサマがいいよ」などと言って、医者を替えるように別のカミサマを訪ねたりもしたといいます。

 神奈川県川崎市でも、病気平癒の祈祷をするお婆さんを「カミサマ」と呼んでいた例があります。中原区の綱島街道のそばにそうした人がいて、清宮家では病人が出ると頼ることがあったそうです。この人は富士山を信仰する富士講の行者でした。関東では富士講が盛んだったため、行者の数も少なくありませんでした。私の実家は東京の大森ですが、本業(桶屋)とは別に行者としての看板を掲げる人がいて、さまざまな祈祷をしていたそうです。私が生まれて間もないころ、姑に虫封じに行けといわれて出かけたことがあると、母に聞いたことがあります。虫封じとは、乳児の夜泣きの原因とされた「疳の虫(かんのむし)」を押さえる祈祷で、現在も一部の神社や寺で行われています。

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 以前、川崎市多摩区宿河原に本部のある新明国上教会で聞き取りをしたことがあります。教祖は四十歳のとき神懸かりとなり、以後、病人の治療や予言を行い、さまざまな奇蹟を起こして「イキガミサマ」と呼ばれるようになりました。信者は次第に増え、最盛期には国内だけでなく中国大陸にも進出し、大連にも布教所を開いていました。こうした信者が訪れるため、梨畑ばかりだった宿河原に六十軒もの宿坊が建てられ、南武線の前身である南武鉄道には当時の名称を冠した「宿河原不動」という駅まで設けられました。この教会の本尊はもともとは不動明王です。しかし、教祖が亡くなると教祖その人を祭るようになり、現在は不動明王に替えて教祖の像を本殿に安置しています。

 その後、あらためて聖書を読む機会がありました。そして、福音書の説くイエスの奇跡譚にふれたとき、まず思い出したのがこの「イキガミサマ」のことでした。


※写真は岩澤家の庭の祠(平成23年) この脇が「カミサマの通り道」と呼ばれていた。