第十話「ミソッチルかけてください」

 


 村々を訪れる人としてまず思い浮かぶのが行商ですが、ここではそれ以外の訪問者について書いてみましょう。たとえば不便な山里でも孤立していたわけではなく、訪れてくる者は少なくありませんでした。町場や街道沿いならなおさらです。

 神奈川県川崎市の中原街道沿いにあった原家は、数代続けて議員も務めた家です。こうした家は普段から出入りが多く、人の来ない日はなかったといいます。陳情の人々は朝早くから訪れました。選挙のときは新聞記者も朝六時ぐらいから詰めていました。酔っぱらいなどもやって来ました。ある人は月に何度か酔って現れ、この家でもまたビールを飲むので子どもたちに「ビールのおじさん」と呼ばれていました。すぐ追い返すわけにもいかないので話を聞いてやり、小遣いを持たせて帰していたといいます。

 厄介な者も来ました。米騒動の時代には壮士がやってきて蔵の前で暴れました。袴を履いた立派な男で、手にした杖には銃が仕込んであったといいます。さらに迷惑なのは泥棒です。柿泥棒などは毎日のように入りました。ある晩、カチンカチンとハサミを使う音が聞こえてきます。犬に吠えられて逃げていきましたが、盗んだ柿をこぼした上、靴まで落としていきました。次の日この男が訪れ、昨日の泥棒ですと謝ったといいます。商売をやっていた頃は本格的な泥棒も少なくありませんでした。狙われやすかったのか、週に一度は入ったという話があるほどです。買い物客が泥棒にしばられたり、警察が誤って客や家の者まで捕らえてしまったりしたこともありました。土壁の中に金を隠していると思われ、壁を壊されたこともあったといいます。原家に伝わる文書には警察に提出された泥棒の侵入経路図面なども残されています。

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 「蔵を破る」という言葉がありますが、蔵が狙われることは少なくありませんでした。福島県福島市の鈴木家の蔵は土で窓が塗り込めてありました。泥棒に入られてふさいだのだといいます。千葉県九十九里町の作田家には泥棒が捕まるよう祈祷した御札が残っています。縄にかかるようにというまじないでしょう。麻の繊維でぐるぐる巻きにした札を開くと、中には和紙を人形(ひとがた)に切り抜き、顔かたちまで書き込んで収めてあります。その胴体には火を押しつけた焦げ目が無数に残っていました。

 泥棒対策として武装する家もありました。岩手県紫波町の集落では、泥棒が来たら刺すといって、どの家も槍や刀を隠していました。長野県伊那市の伊那部宿にあった三澤家では、二階の一隅に床板の外れる場所があり、ここに刀が隠してありました。賊に襲われたときは駆け上がって応戦できるようになっていたといいます。

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 訪問者には旅の芸人たちもいました。川崎市多摩区登戸の清宮家には、正月になると万歳がまわってきました。万歳とは漫才の元になったもので、新年を言祝ぐ二人一組の芸です。賑やかなこの芸人が来ると、子どもたちは付いて歩いたといいます。長野県佐久穂町には越後の瞽女がやってきました。瞽女とは三味線の弾き語りをする盲目の女芸人です。家によっては彼女たちを泊めて三味線を弾かせました。そうしたときには近所の人々も聞きに行ったといいます。

 金品を乞うため玄関先で演ずるこうした芸能を門付といいます。悪い言い方をすれば芸を伴う一種の物乞いですが、これとは別にただ物を乞うだけの人々も家々をまわってきました。土間は縁側と同じく半分公的な空間だったため、このような人々がしばしば入り込んできました。岩手県の工藤家では目や身体の不自由な人、ときには怖い人相の男などが入ってきて、なんでもいいから恵んでくれと言ったり、お願いしまーすと叫んだりしました。そうすると米などを与えたといいます。福島県福島市ではこうした人々を「ホイド」といいました。鈴木家は奥州街道の八丁目宿にありましたが、宿場町にはたくさんまわってきたもののようです。あるとき、土間に入ってきたホイドがお椀を差し出してこう言いました。

「ゴハンを入れてミソッチルかけてください」

印象深いのは言葉そのものより、話をしてくれた鈴木家の奥様が物乞いの言葉を四十年以上も覚えていたことです。真夏でも合羽を着てまわってくる物乞い。腰まで伸ばした髪を枕代わりにしていた女乞食。特に子どもの眼には物珍しく映るのか、聞き取りをするとさまざまな物乞いの話を聞くことができます。

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 民俗学者折口信夫は他界から訪れる神を「まれびと」と呼びました。この国には年の変わり目などに神が訪れて福をもたらすという信仰があり、このことが門付などの芸能を生み、遠来の訪問者を歓待する習慣にもつながったといいます。物乞いたちを決して邪険にしなかったのも、その根には案外深いものがあったのです。


※写真は鈴木家の蔵(平成21年) 防犯のため窓がふさがれている。