第十一話「田の字型の間取り」


 日本民家園では古民家の旧所蔵者に聞き取りを行ってきました。その際、事前にまず確認するのが昭和30年代から40年代の記録写真です。解体前、復原工事の資料として撮影されたものですが、当時の暮らしを知る上で非常に参考になります。床に何が敷いてあるか。台所にどんな道具があるか。風呂の焚き口の方向。洗濯物を干す位置。拡大鏡で見ていくと、柱に貼ってある御札の種類や日めくりカレンダーの日付までわかることがあります。このとき、手元に同時に用意するのが間取り図です。それぞれの写真がどの方向から撮られたものか確認していくのです。撮影場所を特定するのは意外に難しいのですが、この作業をしていくと、部屋の有り様、部屋と部屋との関係が立体的に浮かび上がってきます。

 部屋の配置の仕方を「間取り」といいます。その歴史を単純化して言ってしまえば、土間の一角に寝場所を設けるところから始まり、時代が新しくなるにつれ部屋数は多く、配置はより複雑になっていきます。立地や身分によってさまざまですが、その中で日本の伝統的家屋の代表のように言われるのが「田の字型の間取り」です。これは平面をまず土間と床上に分け、さらに床上を十字に区切って四つの部屋を配置する方法です。近年はマンションでも「田の字プラン」という言葉を使うことがあるようです。玄関を挟んで共用の外廊下側に二室、さらにベランダ側に二室配置する間取りです。しかし、中央に廊下や水回りを設けるので、厳密には田の字ではありません。本来の田の字型の間取りの場合、四つの部屋の間仕切りはふすまか板戸です。その後、次第にプライバシーが重視されるようになり、マンション同様、田の字の中央に廊下を設ける「中廊下型」が大正時代に現れました。ただし、当初はかなり違和感を持って迎えられたようで、川崎市麻生区のある家でこの方式を取り入れたところ、周囲から「女郎屋のようだ」と言われた話が残っています。

 四つの部屋はそれぞれ呼び名も性格も異なっていました。田の字を南側と北側に分けると、南側二間を公的な部屋、北側二間を私的な部屋とすることが多いようです。いくつかの事例から四つの部屋を見ていきましょう。

 南側、土間から見て奥の部屋は客間です。ザシキ、オクなどと呼ばれ、他の部屋が板敷きやムシロ敷きでも、この部屋にだけは多くの家で畳を敷いていました。一番良い部屋ですが行事以外に使わないことが多く、使っていても畳は通常隅に積み上げておいたり、倉に保管しておいたりしました。

 南側、土間から見て手前の部屋は準客間で、デイなどと呼ばれます。普段人を上げる部屋で、客用の囲炉裏も設けられていました。人寄せの際はザシキと二間続きにし、法事や祝言などに使われましたが、通常は脱穀など作業に使われることも少なくありませんでした。

 北側、土間から見て奥の部屋はヘヤ、ナンドなどと呼ばれます。納戸というと近年は物置の同義語になってしまいましたが、元は大事なものを納めておく場所であり、当主夫婦の寝部屋でした。造りも閉鎖的で、古くは「塗籠(ぬりごめ)」と呼ばれて三方を土壁で厚く囲い、入口の敷居もあえて高く作りました。

 北側、土間から見て手前の部屋はオエなどと呼ばれる居間です。家族がともに過ごす部屋であり、その中心が囲炉裏でした。家族は火をはさんで向き合い、一日、一年を過ごしていたのです。

 いろいろな家の記録写真を見ましたが、どこも似ているのがテレビ周辺です。囲炉裏のある煤けた居間の一角に、それは祭壇のように置かれ、布を掛けて花や人形が飾ってあります。手前には新聞や雑誌、後ろには状差しや柱時計、そしていくつものカレンダー。こうした情報機能の集中ぶりからは、家族の視線が囲炉裏という中心から次第にテレビへとずれていったさまがうかがえます。高度成長が変えたのは建物だけではありませんでした。移築工事の記録写真が写し出したのは、家族が姿を変えていくその瞬間だったのかもしれません。

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 機会があったら子供の頃の写真を出して、その背景を虫眼鏡で見てみてください。そこにはきっと忘れていたものが写っているでしょう。その頃の間取り図も描いてみてください。それぞれの部屋はなんと呼ばれていたか。食事をするとき、自分はどの席に座っていたか。そして時間を見つけ、いま住んでいる家もカメラで撮っておいてください。それは必ず後で貴重なものとなるでしょう。私たちは特別なことは記録に残しますが、そうでないことは残そうとしません。ですが、人の生涯を支えているのは特別なことなど何もない、いつもの一日なのです。


※江向家のオエ(昭和40年) 右手にテレビが見える。