第十二話「カマドにしてもらう」


  古民家の土間に入ると、暗がりに小さな山のようなものが見えます。カマドです。その存在感は人を惹きつけるものらしく、見学に来た子どもたちがよくさわっていきます。今はカマドのある家も見かけなくなりましたが、昭和30年代の初めごろまでは人々の暮らしに身近なものでした。

 カマドは通常土間に築きますが、中には床の上に据えて使うものもありました。木枠にのせた可動式のもので「置きカマド」といいます。多摩川に近かった川崎市登戸の清宮家では、土間にカマドがあった他、こうした置きカマドを上がり框に備えていました。かつて多摩川は名うての暴れ川でしたので、洪水で土間が水に浸かっても煮炊きできるようにしてあったのです。置きカマドも姿を消しましたが、今でも見かける七輪はその発展形です。

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 カマドの原型が現れたのは弥生時代です。炉の一角に土器を支える五徳のようなものを設け、その隙間を粘土でふさいだのが始まりとされています。古墳時代には朝鮮半島からより発達した形式のカマドが伝わり、旧来のカマドや囲炉裏を駆逐して全国に広まりました。その後、寒い地域を中心に囲炉裏が復活し、東日本は囲炉裏が主でカマドが従、西日本はカマドが主で囲炉裏が従という地域性が形作られていきました。

 奈良県奈良市の井岡家には囲炉裏がなく、炊事は全てカマドで行っていました。ちなみに、カマドで調理することを「炊く」、囲炉裏に吊った鍋で調理することを「煮る」と言います。井岡家の土間は「通り土間」と呼ばれる廊下状の空間ですが、そのさほど広くない場所に大きなカマドが二つ設けられていました。一つは調理用、一つは祭祀用です。

 調理用のカマドは毎日使うものですが、使い方に決まりがありました。横長のこのカマドにはかつては上面中央に5センチほどの段差があり、上段と下段にそれぞれ竈口が二つずつ並んでいました。どちらの段も一つは炊飯に使う釜用、もう一つは調理に使う鍋用です。しかし、通常使うのは下段だけで、上段の竈口は春日大社の祭りの日以外使用しませんでした。つまり、調理用のカマドではあっても、普段の日と特別な日とで鍋釜をかける場所を使い分けていたのです。

 一方、祭祀用のカマドはいわば神棚であり、調理には使用しません。祭られていたのは日本独自の火の神、三宝荒神です。この信仰の広がりには琵琶法師たちが関わっており、かつて九州や山口県では彼らが家々をまわり、琵琶を鳴らしながらカマドの前で経文を唱えたといいます。井岡家ではこのカマドに灯明を上げ、松の枝や榊を飾り、ご飯は三度三度、正月には鏡餅も供えました。カマドとしての機能も備えてはいましたが、年に一度、正月の餅を搗くとき以外火を入れることは決してなかったといいます。

 民俗学では、行事など非日常の時間を「ハレ」、普段の日常を「ケ」といいます。私たちはかつてこの二つをはっきり分け、食事や衣服もあらためていました。そうした区別が火の扱いにも及んでいたのです。

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 カマドは家の象徴として慣用句にも使われてきました。「カマドを起こす」といえば財産を築くこと、「カマド賑わう」といえば暮らしが豊かになること、「カマドを破る」といえば破産することです。

 工藤家のある岩手県紫波町では「出身」という意味でこの言葉を使いました。たとえば「先祖は高野山のカマドだ」といえば、高野山出身という意味です。工藤家はもともとは和歌山県にある高野山の出でしたが、砂金を求めて秋田に移り、さらに岩手にたどり着いたといわれています。しかし、血縁の無い中で農作業を行うのは難しく、名目上、土地の旧家であった工藤家を本家とし、姓も元の鈴木から工藤に改めました。こうしたことを「カマドにしてもらう」といいます。カマドになると一族として庇護を受ける一方、さまざまな義務を負い、代が替わっても何かあれば手伝いなどに行かなければなりませんでした。家を守るために、簡単に言えば主従関係を結んだのです。

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 話はカマドからずれますが、聞き取りをくりかえして思うのが「家」というものの重さです。それは家族とは違います。家屋のことでもありません。お腹にいるときから死んだ後まで、守る一方、縛りもする。核家族化が進み、一見家の力は小さくなったように見えます。しかし、物事をどう捉え、選択を強いられる場面で何を選びとるか、育ったカマドの影響は実はそんなところにまで及んでいるような気がしてなりません。


※作田家のカマド(昭和43年)