第十三話「サムハラ」

  古民家から話はずれますが、「サムハラ」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。文字では写真(右手の看板)のように書きますが、この字は一種の呪文であり辞書にはありません。語源ははっきりしませんが、文献に現れるのは近世に入ってからのようで、いくつかの随筆に由来が記されています。どうしても矢の当たらない鳥がいるので捕らえたところ、羽の下にこの文字があり、以来災難除けのまじないに使われるようになったといいます。このことから、明治以降は出征兵士の弾除け祈願に用いられました。

 写真は大阪市西区にあるこの言葉を冠した神社です。田中富三郎という人が設立したもので、神社本庁に属さない宗教法人です。田中氏は日清日露戦争当時、岡山のサムハラ様という小祠に祈願して難を逃れ、その後布教活動を行うようになりました。サムハラ神社が出したお守りには貨幣型のものの他、カフスボタン型や指輪型などもありました。この指輪をつけていた兵士が、指だけ怪我しなかったという話もあるといいます。現在は身を護るということで信仰を集め、信者には著名なスポーツ選手や俳優、政治家などもいます。企業ではデパートなどが営業車両のお祓いを行っており、鳥居なども奉納しています。弾除け信仰からは離れた形ですが、それでも私が聞き取りに入った平成12年には、戦争当時のお礼参りに来る人がまだいるとのことでした。

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 神奈川県綾瀬市にある報恩寺は、戦時中「オタスケ観音」「弾除け観音」として全国的に信仰を集めていました。もっとも、こうした名の仏像がお堂に祀られていたわけではありません。観音菩薩の石像が境内に多数配置され、その参拝路がちょうど星座のように観音像を描く形になっていたのです。このため、寺で出していたオタスケ観音の御影(護符)は寺の境内図ともなっていました。報恩寺の観音信仰は二十七世洞源にはじまります。洞源は台湾で戦闘中観音を感得し、無事に帰還したのを機に石仏を刻みはじめました。当初は多様な祈願の対象でしたが、その後次第に弾除け観音として知られはじめ、昭和18年、厚木に海軍航空隊基地が置かれたのをきっかけに多数の信者を集めるようになりました。盛時には参拝者が駅から列をなしたと言われています。弾除け祈願の依頼があると、一人ひとりにお経を読んで大般若経の風を当てました。折本になっている経典を両手でぱらぱらと虹のように広げ、一部を読み上げることを転読といいますが、これを依頼者の頭上で行ったのです。護符は葉書型で、遠方からの依頼には祈祷した上で郵送しました。複数枚の護符の送付に使用されたと思われる封筒には「サムハラ」の文字も記されています。寺の境内にあった参拝客用の休憩所には、無事に帰ったというお礼の葉書が当時はたくさん貼ってあったといいます。50年後、60年後にお礼参りに来る人もやはりまれにはあったようです。ご住職の話では、個人的にではありますが、今も自衛隊員がお参りに来るとのことでした。

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 戦時中の弾除け信仰について紹介してきましたが、こうしたまじないとして最も知られているのは千人針でしょう。1メートルほどの白い布に、千人の女性が千の縫い目を赤い糸で作り、出征する兵士に持たせるのです。当時の言葉でいえば武運長久祈願ですが、要は弾除けであり、兵士たちはこれを腹に巻いたりして戦場に行きました。

 単に縫い目を作るだけでなく、刺繍のように縫い目で虎を描くこともありました。「虎は千里往って千里還る」ということわざに基づくもので、無事に帰るようにという願掛けです。このことから寅年の女性は特別な扱いを受け、通常は一人一針ですが、この年生まれの女性だけは自分の歳の数だけ縫ってよいとされました。この他「サムハラ」の文字が縫われることもありました。五銭玉や十銭玉が縫い込まれることもありました。これは「四銭(死線)を越える」「九銭(苦戦)を越える」という願掛けです。よくも考えるものだと感心しますが、赤紙一枚で戦場に引きずられていく庶民にはそのくらいしか工夫の余地はなかったのでしょう。決して表立つことはありませんでしたが、徴兵除けの祈祷も一部では行われていました。いずれも現在の眼には迷信としか映らないかもしれません。しかし、大切な人に生きて帰ってほしい、大事な人のためになんとか無事に帰りたい、そんな切実な思いがここには在ります。平成15年から21年、自衛隊がイラクの復興支援で派遣された折には千人針を贈った例があったといいます。過去のことと笑ってはいられないのです。


※写真はサムハラ神社(平成12年) 右の看板にサムハラの文字が見える。