第十四話「そりゃ無尽だ」

 

 「ユイ」という言葉は現在でも比較的知られているのではないでしょうか。『広辞苑』には「田植などの時に互いに力を貸し合うこと」とあります。似たような言葉に「モヤイ」もあります。田植えだけでなく、手のかかる作業には各家から人を出すのが地域の決まりでした。専業の職人がおらず、住人も少なければ、そうしない限り暮らしは成り立たなかったのです。

 福祉事業やサービス産業が行き渡らなかった時代、人々はどのように手を貸し合っていたのでしょうか。ここでは昔の助け合いについていくつか書いてみることにします。

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 山田家のあった富山県南砺市桂は秘境として知られる五箇山でも最奥部に位置していました。集落前の川は県境を兼ねており、ブナの木を倒した丸木橋を渡ると対岸は岐阜県白川村です。ここには加須良という似た名前の集落があり、かつては県境を越え、互いに助け合って暮らしを立てていました。

 こうした集落で最大の事業といえば、なんといっても屋根の葺き替えです。桂には6戸、加須良には7戸の家がありましたが、いずれも巨大な屋根を持つ合掌造りであり、人手がなければどうにもなりませんでした。葺き替える際にはあらかじめ連絡し合い、川を渡って互いに手伝いに出かけたのです。

 二つの集落では熊を撃つ際にも共に山に入りました。毛皮、肉、胆嚢、捕らえたあとの分け方にも決まりがありました。胆嚢とはいわゆる熊の胆で、薬として利用されたため最も高価な部位です。取り出したばかりは水の入った風船状で、これをかごに入れて囲炉裏の上に吊るし、状態を見ながら夜を徹して乾燥させていきます。半乾きになると、今度はこれを二枚の板にはさみ、さらに乾燥させます。こうしていくと最終的に固い板状になるので、これをはかりで量って切り分けました。売れば貴重な現金収入になったといいます。

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 古民家の聞き取りに入ると、昔は貧しかったという話をよく聞きます。どの家も今の住宅に比べれば大きいので、そう聞いてもピンと来ないのですが、要するに現金収入が限られていたということです。

 神奈川県川崎市登戸では、かつて経済的に困っている家で不幸があると近所で仏餉袋がまわりました。「仏餉(ぶっしょう)」とは仏に供える米のこと、「仏餉袋」とはもともとは仏餉を寺に持っていくための袋をいいます。この土地の仏餉袋は端切れを継ぎ合わせた二重の袋で、上にはひもが付いていました。そしてこの袋がまわってくると、それぞれの家で見舞いとして米を入れました。不幸があったときだけでなく、火事や病気のときにもこの袋が近所をまわったといいます。

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 銀行もない、消費者金融もない、そうした生活のなか急に現金が必要になった場合どうしたでしょうか。そこで発達したのが「無尽(むじん)」「頼母子講(たのもしこう)」などと呼ばれる庶民金融です。会員が一定の額を出し合い、くじ引きや順番で資金の融通を受けるというもので、職場の懇親会や旅行のための積立なども一種の無尽です。鎌倉時代に始まり、明治に入ると営業として行う無尽会社も現れました。かつての相互銀行の多くはこうした無尽会社から発展したものです。

 山梨県は現在も無尽の盛んな土地です。廣瀬家のある甲州市塩山でも、親睦を図るためお金を積み立て、旅行に行ったり親睦会を開いたりということを続けてきました。このように現在は一種の娯楽として行うものとなっていますが、かつては経済的に困った家が出たとき行うことが多かったといいます。たとえば荷運びを渡世にしているにも関わらず、馬が駄目になり商売が立ち行かなくなるような場合です。こうしたことがあると「そりゃ無尽だ」ということになりました。そして誰かが保証人となってお金を集め、そこから馬を買う資金を貸して毎年いくらかずつ返済させたのです。

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 私の実家は町工場でしたので、小さい頃から金銭がらみの話を耳にしていました。不渡りを出す、保証人になる、手形を割引く、育ちの良い人なら聞いたこともないような言葉のむこうに、私は「世間」というものを感じていたように思います。育ったのはちょうど高度成長期でしたが、その世間にはどこか、時代に取り残された裏町の気配がまとわりついていました。どんなに国が発展しようと、庶民の暮らしには前時代と地続きの部分が地層のように積もっていきます。そして昔も今も、人々は互いにやりくりしながら世間を渡っていたのです。


※写真は清宮家移築時の屋根葺き(昭和41年)