第十五話「ウンタ」


  聞き取りをしていると、話し手にも向き不向きのあることがわかってきます。高齢なら昔のことをたくさん知っていそうなものですが、よく記憶しているかと言えば必ずしもそうではありません。お年寄りでも新しいもの好きで、過去にこだわりを持たない方もいらっしゃいます。地元の信仰について聞きたくても、ご年配だからといって信心深いとは限らず、合理的でそうしたものを嫌う方もいらっしゃいます。あたり前のことですが、同じように年を取っていてもいろいろな方がいるのです。

 当たり外れと言っては申し訳ありませんが、そうしたなかで話の面白い方に当たるとうれしいものです。川崎で漁師をしていたある方は、話がすぐに脱線してしまうのですが、とにかく話題の尽きない人でした。

 川崎大師近くにかつて「思案橋」という名の橋があったといいます。長崎の同名の橋は丸山遊郭に行こうか行くまいか思案したことから名付けられたと言われ、ここも堀之内の歓楽街に近いことから同じような由来かと聞き返しますと、そうではないといいます。棺桶をかついで橋を渡っていたところ、突然死人が生き返ってしまった。どうしたものかと考えてウロウロしたことから「思案橋」と呼ぶようになったのだといいます。医学が発達していないころはこうしたことがしばしばあったのか、同じ人がこんな話もしてくれました。ある家で家族が亡くなった。そこで葬式をしていたところ、「ウーン」と言って生き返ってしまった。以来その家を「ウンタ」と呼び、これが屋号のようになってしまったといいます。

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 「屋号」と聞いても都会育ちの人にはピンと来ないかもしれません。『広辞苑』には「商家または俳優などの家の称号」としか記されていませんが、かつては名字代わりに用いられる家の呼び名のこともこう呼びました。早い話、同じ名字の家が固まって住んでいると、そうした呼び名がないと不便だったのでしょう。川崎市でもたとえば中原区周辺には原姓が大変多く、民家園に移築された原家の方にお話をうかがったところ、同じ名字の家同士では今でも屋号を使うことがあるそうです。

 聞取りに入ると屋号は必ず記録します。なぜなら、その家の集落内での立場や、先祖の職業、屋敷の立地など、さまざまな事柄がそこに現れるからです。たとえば「アラヤ」とか「ニイヤ」という屋号を持っていれば、その家はどこかの家の分家筋です。「ホンケサマ」のように「サマ」が付く屋号であれば、その家は土地の草分けの一軒であり、かなりの規模の地主だったはずです。川崎市北部の「ボウヤ」という家は農家でしたが、副業にクワの柄、つまり棒のすげ替えを行っていました。山梨県甲州市の「トンヤ」という家は、この土地で煙草栽培が盛んだったころ葉煙草の問屋をしていました。

 なかには珍しい由来を持つ屋号もあります。川崎のある人は漁に出たところ時化に遭い、何日も漂流した末、意識を失って陸地に打ち上げられました。目を覚ますと、見たこともないような格好をした男たちが上からのぞき込んでいます。外国まで流されたと思い、砂浜に「日本」と書いて自分を指さしたところ、男の一人が「ここも日本だよ」と言って笑いました。東京湾を行ったり来たりしていただけで、流れ着いたのはすぐ対岸の房総半島だったのです。以来その家は「日本屋」と呼ばれるようになりました。

 地名の文化的価値はすでに広く認識されています。屋号は尋ねない限り外から知るのはなかなか容易ではありませんが、地名と同様、そこにもまた小さな歴史が刻み込まれているのです。

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 実家の父がまだ生きていたころ、うちの屋号は何かと聞いてみたことがあります。すると父は少し考えて「たぶんサカイヤだ」と言いました。建て替える前の墓石に、渋谷某に混じって「堺屋平六」という名があったのだといいます。父の本籍のあった町は東京大空襲で焼けていますので、過去帳も戸籍も残っていません。古い墓石も処分してしまいましたので、父の見た名前ももう見ることはできません。それゆえ「堺屋」が屋号だとすれば、この言葉だけが私の家の歴史を語るものなのです。父は大阪の堺と関係があるのではないかと言っていました。しかしおそらくそうではなく、町のはずれ、隣町との境近くに、私につながる誰かが小さな家を構えていたのでしょう。そんなことを考えていると、自分の足元にも深い根があるのを見つけたようで、なつかしい気持ちになるのが不思議です。一つの言葉が時代を漕ぎ渡って、何かを届けてくれたのです。


※原家住宅の瓦 家印として使用されているこの「イ」は、屋号「イシバシ」から取ったもの。