第十六話「煙草包丁の柄のようだ」


 「わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専売局にうんとしかられるぞ。わあ、又三郎何してとった。」(中略)

「わあい。専売局であ、この葉一枚ずつ数えで帳面さつけでるだ。おら知らないぞ。」(宮沢賢治「風の又三郎」)


 日本民家園には煙草栽培を行っていた家が3軒ありますが、そうした家でお話をうかがうたびにこの物語を思い出しました。専売公社の管理が厳しかったこと、その目をくぐって密造していた人のことをしばしば耳にしたからです。

 以前お酒のことを取り上げましたので、今回は煙草の話をしてみたいと思います。ぜんそく持ちの私には、こちらも縁はないのですが。

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 煙草栽培は養蚕とともに、貴重な現金収入源として米のあまり採れない畑作中心の地域を支えていました。ここでは岩手県紫波町の工藤家と神奈川秦野市の北村家の例から栽培の様子をご紹介しましょう。

 栽培は苗床を作ることから始まります。牛小屋の敷きわらや落ち葉を何度も積み替えて腐葉土にし、「堆肥通し」と呼ばれるフルイで細かく振るい分け、苗床にします。ここに専売公社から購入した種をまきます。

 芽が出てある程度育つと間引きです。神奈川県秦野市では間引くことを「オロノク」といい、密生したところから疎らなところへの移し替えにピンセットを使いました。苗が大きくなると畑に移します。このとき一本一本数え、どの畑に何本植えたか専売公社に漏れなく届けなければなりません。これを怠るとお酒と同じで密造ということになりました。

 梅雨は忙しい季節です。放っておくとメド(脇芽)が出ます。つぼみもつきます。そのままにすると養分が取られて葉が小さくなるため、取り除かなければなりませんでした。これを「メドカキ」といいます。雨でも休むわけにいかず、そうした折りは体が冷えるため焼酎を飲んで出かけました。この作業をすると煙草のヤニで顔も腕もベタベタになったといいます。

 収穫は夏です。育つと2メートルを超え、上を向いて作業するため目を痛める人が少なくありませんでした。品種にもよりますが、葉は一枚が50~60センチにもなります。「テンパ(天葉)」「ホンパ(本葉)」など、付く位置によって呼び方があり、品質も値段も異なりました。収穫した葉は根元をわら縄の縄目に一枚ずつ差し込み、柱と柱のあいだに掛け渡して家の中で乾燥させます。巨大なすだれです。このすだれをどの部屋にも何本も吊るし、秋から冬にかけて家族はその下で暮らしました。起きているあいだは身をかがめて歩き、寝るときはその下に布団を敷いたのです。

 乾燥を終えると次は出荷の準備です。冬の夜、子どももお年寄りも集まり、手でしわを伸ばして葉を重ねていきます。ヤニで手が黄色くなり何カ月も取れませんでしたが、いろいろなことをしゃべりあう息抜きの場でもありました。若者たちは夜、娘のいる家に出かけて作業を手伝いました。これを「夜遊び」といい、どの家にどんな娘がいるか皆頭に入れていたといいます。

 束ねた葉は専売公社に出荷しました。これを「納付」といいます。このとき全て出さず、自分で加工して吸う人もいました。これが密造です。重い罪になりましたが、山に穴などを掘って隠しておく人が時々いたようです。

 煙草は現金になる一方、その害も認識されていました。栽培をやめ、荒れ放題になっていた煙草畑にある人がキュウリを植えところ、一本も出来なかったといいます。原因は煙草の成分とされ、当時はそれが抜けるまで40年かかると言われたそうです。また、煙草の栽培地域では養蚕を行う家も少なくありませんでしたが、煙草の葉を吊るのはその年の養蚕が全て終わってからでした。もし飼育中に吊るしてしまうと、蚕たちは青い液を吐き、繭を作れなくなったといいます。

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 最後に煙草にまつわる言葉を一つご紹介しましょう。広瀬家のある山梨県甲州市上萩原では、物事の短いことを「煙草包丁の柄のようだ」と言いました。煙草包丁とはキセルに使う刻み煙草の製造用具で、大阪の堺で生まれ、各地に広まりました。この包丁は正方形に近い大きな刃を持っていたため、柄がひどく短く見えたのです。この言葉を教えてくださった広瀬家の元ご当主は百歳でした。江戸時代には煙草で知られた土地でしたが、この方が物心ついた頃、つまり明治末年にはすでに栽培を終え、煙草の葉はただひな人形の箱に虫除けとして入れてあるのを見かけるだけだったといいます。そんな中でもなお、一つの言葉が生き残り、人々の口に上り続けていたのです。使い慣れた道具の手ざわりとともに。


※写真は座敷に吊された煙草の葉(工藤家、昭和42年)