第十八話「曲がり曲がりまっすぐ」


 子どものころ、祖父の家への行き帰りに必ず乗り換える駅がありました。神奈川県の川崎駅です。夜、駅に降り立つと向かいには暗い工場が広がり、一番外れのホームにはそこだけ違う時間が流れているように、いつも茶色い古ぼけた車両が止まっていました。現在、東芝の工場跡地は大規模な商業施設になり、南武線は黄色いラインの入ったステンレスの車両に変わりました。当時の自分は想像もしなかったでしょうが、私は縁あって川崎の博物館に職を得、この列車で毎日通勤しています。

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 今回は川崎の海の話をしてみたいと思います。川崎の海などというと、煙突が立ち並ぶコンビナートの風景が思い浮かぶかもしれません。しかし、かつて川崎には豊かな海がありました。浜辺では塩焼き(製塩)、浅瀬では貝捲きというアサリやハマグリの漁、そして少し沖では海苔の養殖が盛んに行われていました。多摩川の流れが滋養を運び込むこともあって、川崎の海苔はことに品質の高さで知られていたのです。

 海苔の養殖は海苔漁といい、携わる人々を海苔漁師といいます。しかし実際の作業を見ると、漁業というより農業に近いことがわかります。海苔漁とは、簡単にいえば海藻を育てて収穫する作業です。胞子を付着させる、いわば苗床の役割をする道具を「ヒビ」といいます。古くは木や竹の枝を使い、海底に開けた穴に一本一本植えていきました。穴を開けるときは「振り棒」という3メートル近い道具を使います。V字型の柄を両手で持ち、先端に取り付けた鉄の刃を振り下ろして穴を開けていきます。水の深いところでは「海苔下駄」を履きます。高いものでは90センチほどのやぐらのような脚が付いたもので、脚の底には水中で浮かないよう重石が取り付けてあります。こんな道具たちを操りながら、秋の終わり、干潮が夜ならば暗くなってから海に入り、作業しなければならなかったのです。

 木ヒビや竹ヒビは昭和10年代に網ヒビに変わりました。幅90センチ、長さ40メートルほどの長い網で、海中に打ち込んだ二列の支柱(竹竿)のあいだに張っていきます。元漁師の方たちにお話をうかがうと、この支柱の打ち方を見れば、それがどこの家のものかわかったといいます。ある家の支柱はいつ見ても、どこまでも真っ直ぐに並んでいました。代が替わっても同じだったといいます。しかしある家のものは仕事が大雑把で、いつ見ても列がゆがんでいました。話してくださった方はうちのことだと笑いながら、こんなふうに言いました。

「多少曲がっていようがゆがんでいようが、曲がり曲がりまっすぐならいいんだよ」

考えてみれば、毎日の仕事にはどこかしらその人の性格が出るように思います。そこに多少のマイナス要素があったとしても、最後は何とか帳尻を合わせていくのが「暮らす」ということなのかもしれません。

 海苔の話に戻りましょう。ヒビに付いた海苔を真冬の海で摘み取ると、次は加工です。木を輪切りにした大きなまな板の上に摘み取った海苔をのせ、まず包丁で叩いて細かく刻んでいきます。古くは普通の包丁を両手に持って作業しましたが、やがて2、3枚の刃を複葉機の羽のように並べた「飛行機包丁」が現れ、長い柄の先に8枚ほどの刃を取り付けた「突き包丁」に変わり、その後、肉をミンチにする機械が転用されるようになりました。

 こうして細かくした海苔を、次は四角い形にしていきます。まず樽に入れた水に刻んだ海苔を溶きます。次にのり巻きに使うような簀に四角い枠を置き、溶いた海苔を流し込みます。これを天日で干すのです。紙漉きに似ているのは当然で、板海苔はもともとその技術を応用して生まれました。乾いていくと海苔の表面にはつやが生まれ、日ざしを映して白く光ります。そのため、戦時中は軍事施設に間違われることを恐れて、空襲警報が出ると乾燥中の海苔をあわてて引っ込めたという話が残っています。

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 昭和48年、川崎の漁協は解散し、漁師たちは保証金を得て陸に上がりました。ゴルフの練習場を始めた方、飲食店を始めた方、梨の栽培を始めた方、その後の暮らしぶりはそれぞれですが、会って話をすると時に共通する気配を感じることがあります。その肝の座ったある種の明るさは、やはり漁師の匂いというものなのでしょう。仕事に人が出るように、人には仕事が出ます。一つの生涯にとって仕事というものがどれほど大きな意味を持つか、そのことをあらためて考えています。


※写真は羽田側から見た多摩川河口。この先に豊かな漁場がひろがっていた。