第二十話「黄色い救急車」

 子どものころ、何かおかしなことを言うと互いにこう言ってはやし立てました。

「そんなこと言ってると黄色い救急車が来るよー」

黄色い救急車とは精神科専門の車両で、これに乗せられると強制的に閉鎖病棟に隔離されると信じられていたのです。当時は無論何も知りませんでしたが、この話はいわゆる都市伝説の一つです。研究者の調査によれば、広まったのは1960年代で、やがて全国に及びました。救急車の色は黄色だけでなく、緑や青とする例もあるといいます。発生元は明らかになっていませんが、この話は精神科の病気や病院に対して私たちがどのように感じてきたか、そのことをよく表しているように思います。

 今回は精神科の病気や障害にまつわる話を書いてみたいと思います。扱いの難しいテーマですが、私たちがそうしたこととどのように関わってきたか、その一端を知ることでバリアフリーの問題を考える手がかりにしていただければと思います。

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 島崎藤村の『夜明け前』で、主人公の青山半蔵は錯乱状態に陥り、座敷牢に監禁されて死んでいきます。現在は許されることではありませんが、実はこうした扱いは特別なことではありませんでした。私宅監置と呼ばれ、当時の法律では制度として規定されていたのです。

 錯乱状態になったり、暴れて手を付けられない状態になったりすると、狐が憑いたとする場合もありました。私は「呪いと占い」(まじないとうらない、川崎市市民ミュージアム、2001年)という展覧会に関わった折、狐落としの呪法について聞き取りをしたことがあります。その時の話によれば、狐が憑くと飛び上がったり意味不明のことをしゃべり続けたりするということですが、現在ならおそらく精神科の診療対象でしょう。しかしかつては狐の仕業とされ、東京や神奈川では治療にしばしば武蔵御岳山(東京都青梅市)の御師(おし)が関わっていました。御嶽神社で祭る大口真神(おおぐちまがみ)は狼を神格化したものであり、狐退治に有効だと考えられたためです。具体的には「御狗様(おいぬさま)」と呼ばれる狼の護符を祭ったり、狼の頭骨を削って飲ませたりした他、深夜、神社の拝殿に座らせ「蟇目(ひきめ)」と呼ばれる特殊な矢で体を突いたりする呪法を行いました。患者はこうした「治療」を受けさせられてきたのです。

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 次は障害ゆえに大事にされた例をご紹介しましょう。

 宮城県仙台市で飲食店に入ると、着物姿の子どもの写真が飾られているのを見ることがあります。坊主頭、満面の笑顔、懐手をして座り、はだけた着物の裾からは膝が見えています。この子ども、名を四郎といいます。幕末に生まれ、明治30年代まで生きたようですがはっきりしたことはわかりません。知的な障害がありほとんどしゃべれませんでしたが、いつも笑っていたため可愛がられ、立ち寄った店は不思議と繁盛するので福の神として歓待されるようになりました。四郎の写真が絵葉書になったのは大正の初めごろです。やがてこれが商売繁盛の御札のようになり、今では「仙台四郎」と呼ばれ土産物にまでなっています。

 以前、ある研究者を招いてこの話をしていただいた際、講演後の質疑応答で似た事例を話してくださった方がいました。その方は都内の飲食店街で育ったそうですが、その町にも似たような人がいて、やはり立ち寄ると客の入りが良くなるというので大事にされたといいます。

 「福子(ふくご)」という言葉があります。知的な障害のある子どもを指す言葉で、家に富をもたらす守り神としてこう呼び、大切に育てたといいます。このように書くと座敷童子を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。座敷童子は家の守り神で、出て行かれて没落したという話が各地に残されています。その家で最も弱いものに神性を見出すという信仰の在り方が、この国のどこか深いところで受け継がれてきたのかもしれません。

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 私が生まれ育った家のそばに路線バスの操車場がありました。中学生のころ、夕方になるとその近くで決まってバスを眺めている子どもがいました。子どもといっても二十歳を過ぎていたかもしれません。知的な障害のあることは見ていればすぐにわかりました。一人でいることが多かったのですが、ときには年老いた母親が引き止めるように脇から抱え込んでいることもありました。真冬でも暗くなるまで立っていて、薄れてゆく夕焼けのなか、ボロを巻きつけたように着ぶくれて風に吹かれていたのを思い出します。その後のことはわかりません。福子などといっても親の苦労ははかり知れないものだったでしょうが、あの親子の生涯にも安らかな日のあったことを祈りたいと思います。


※写真は御師の看板(平成29年、武蔵御岳山にて)