第二十一話「長屋のやることだ」

 民家園に移築されている佐地家門は武家屋敷のものです。旧所在地は名古屋市東区白壁。その地名が示すとおり、漆喰仕上げの美しい作りです。しかし門をくぐって内にまわると、漆喰は塗らず、中塗りという土の色そのままの仕上げになっています。軒裏も同様、外側は全て漆喰で塗籠めてありますが、内側は軒板や垂木が木地を見せています。したがってこの軒を両端の角から見上げると、漆喰仕上げの外側とそうでない内側とが45度の線で明確に分かれているのです。ここには体面を重視する武士の性格がよく表れています。実際には質素に暮らしつつも、世間に対しては一定の体面を保とうとしたのです。

 体面とは何でしょうか。手元の辞書を引くと「世間に対する体裁」(『広辞苑』)とあります。今回はこのわかったようでわからないものについて考えてみたいと思います。

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 古民家の聞き取りをしていて、知識としては知りながらそのたびに不思議に思うことがあります。それは、陽当たりが悪く、冬は寒い裏側に家族の居間や寝室を設け、一番陽当たりの良い表側の部屋を普段使用しない客間としていたことです。かつては畳が敷いてあるのも客間だけという家が少なくありませんでした。このように、その住宅で最も快適な部屋を、家族が多くとも寝起きに使わない家が多かったのです。こういった暮らしぶりは、寝室にプライバシーを求める傾向が強まり、部屋数の確保が課題になるにつれ次第に変化していきます。しかし、客間で寝起きするようになってからも普段は板の間として使用し、畳は来客用として部屋の隅に積んでおいた家が昭和40年代にはまだ残っていました。体面を重視したのは武士に限ったことではなく、しかも、そうした考え方が間取りという日常に直結する部分にも及んでいたのです。

 具体的な例を上げましょう。川崎市中原区から移築された原家は、どこそこまで他人の土地を踏まずに行けたという話の残る典型的な大地主の家です。家には男衆と女中が住み込み、女中の方は多い時で7、8人いて、子どもたちにはそれぞれお付きの者がいました。他にも出入職と呼ばれるさまざまな職人が始終出入りし、暮れの餅つきや葬儀の折には、こうした男たちが家紋の入った揃いの法被で駆けつけ、現場を取り仕切ったといいます。

 この屋敷の南側には庭に面して三つの座敷が並んでいました。玄関に近い方からヒロマ、ナカノマ、オクザシキと呼ばれ、奥に行くほど格式が高くなります。天井の高さもそれぞれ異なり、格式が高い部屋ほど高くなりました。これらはいずれも客間であり、冠婚葬祭の他、政治に関わっていたこの家では選挙対策会議や祝勝会などにも使われました。こうした折はふすまを取り払い、三部屋を「ツヅキノマ」として大勢の客をもてなしたといいます。後年、中央のナカノマはお年寄り用に使われるようになりましたが、それ以外に家族が寝起きすることはありませんでした。

 この家は家事のやり方にも厳しい決まりがありました。女中たちはたくさんいましたが、嫁が先頭に立ってやるのが一家の流儀でした。聞き取りの際、私はさまざまな苦労話を聞かされましたが、中でも印象に残っているのが洗濯の話です。この家では洗濯物の干し方について日頃からこんなふうに言っていました。

「よそから洗濯物が見えるのは長屋のやることだ」

来客の目に付く場所に干してはならないということです。布団も同様、寝部屋は二階にありましたがそこには決して干しませんでした。どちらも日に当てるときは裏庭まで運ぶのです。裏庭と言っても一般家庭のように縁側から出ればそこが庭というわけにはいきません。渡り廊下をまわり、離れをまわり、蔵の裏手まで運ばなければなりませんでした。もめん綿の重い布団を二階から下ろし、物干し場まで運ぶのは本当に重労働だったといいます。このような苦労も、言ってしまえば家の体面のためだったのです。

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 体面重視の裏にあるものは何か。それはおそらく格付け意識でしょう。体面を保つとは格下に見られないようにすることであり、身分制度が表向きなくなっても、資産を尺度にそうした意識が残ったのではないでしょうか。ここに上げたような事例は現在の目からは首をかしげたくもなりますが、今の私たちの行動にも似たような意識がどこかで働いているに違いありません。それがたしなみを生んできたのも確かですが、差別と容易に結びつく面があることも覚えておく必要があるでしょう。使った方にはそんな意図は毛頭無かったでしょうが、「長屋のやることだ」という言葉には、その両面が図らずも表れているように思います。


※写真は移築前の佐地家門(昭和45年頃)