第二十三話「ニャーガナシ」


 私は古民家がもと建っていた土地を順番に訪ね歩いてきましたが、最後に訪れたのが鹿児島県の沖永良部島でした。奄美大島と沖縄本島のあいだに浮かぶ小さな島です。今回はこの島の話を書いてみたいと思います。 

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 沖永良部島から民家園に移築されたのは高倉と呼ばれる穀物倉庫です。四本の柱の上に築かれた茅葺きの板倉で、昇り降りには丸太に刻みを付けたはしごを使います。中には米などを入れたため、柱の最上部にはトタン板を巻き、ネズミが足を滑らせて登れないようにしていました。柱に使用したのは「イジュ」というツバキ科の木です。この木は堅くて腐りにくく、シロアリに強いという特性を持っていました。

 博物館の仕事をしていて一番うれしいのは、調査を通して思いがけないものが見えてくるときです。この島では図らずもそんな思いを味わうことができました。民家園ではこの倉を「沖永良部の高倉」と呼び、文化財の指定名称もそのようになっています。しかし、どうも沖永良部の倉ではないらしいのです。いや、移築時は確かにこの島にあったのですが、もともとは別の島で作られ、運ばれてきた可能性が高いのです。沖永良部は隆起サンゴ礁の島で、標高が低く、深い森がありません。そのため、高倉に使用するような太いイジュの木は手に入らなかったのです。奄美群島のうち喜界島と与論島も似た環境下にあり、こうした島々では昭和30年代まで薪さえも他の島から買い入れていました。倉や住宅も同様で、奄美大島などで中古を買い付け、解体して船で運び入れることが珍しくなかったといいます。特に高倉は釘を使用していないため、解体や組み立てにはうってつけだったようです。

 構造の点でも興味深いことがわかりました。日本の伝統建築は「ホゾ」と呼ばれる突起を差し込んで部材と部材とを組み合わせていきます。通常このホゾとホゾ穴は同寸で加工しますが、高倉はそうではありませんでした。本体とそれを支える柱との接続部分については、ホゾの周囲に指一本回せるほどの遊びをあえて設けたといいます。こんな加工をした理由はこの地域の気候にあります。頻繁に襲う台風に対し、ある程度動くことで強い風を受け流す仕組みになっていたのです。島の大工のあいだで培われ、長年受け継がれてきた技術でしょう。こうした技術伝承も、記録しなければ間違いなく消えていきます。

 もう一つ、高倉の位置付けについても重要な話を聞くことができました。新たに倉を建てたとき、最初に中に入るのは女性でなければならなかったといいます。その家の家族から一人を選び、米をほんの少し入れた小さな俵を担がせ、倉の中に運び込ませるのです。そしてその後は一切、女性は中に入ることはできませんでした。これはおそらく穀霊信仰に関わる儀礼でしょう。この女性は神の嫁であり、両者の結合によって豊穣、すなわち米が俵に満ち、俵が倉に満ちることを祈ったのです。実際、古くは高倉に神が祭られていました。現在は伝承としてもほとんど残っていませんが、かつては倉内部の四隅に丸い石を置いたといいます。この石を「ニャーガナシ」と呼びました。「ニャー」とは稲のこと、「ガナシ」は尊称で「~様」というほどの意味です。米を収める高倉は単なる倉庫ではなく、穀霊を祭るお社でもあったのです。

 しかし、高倉は次第に姿を消していきました。昭和55年の調査では沖永良部島だけで87棟建っていましたが、平成16年の調査では35棟、平成27年には10数棟ほどになってしまったといいます。理由は単純です。米を作らなくなり、必要なくなったのです。島では米からサトウキビへ栽培の主力が移り、田は畑へと姿を変えました。そして高倉も、たとえば台風で倒壊してもそのまま取り壊すことが増えていったのです。

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 旧所蔵者の子孫の方の案内で、民家園の高倉があった屋敷跡を訪ねました。かつてはガジュマルの防風林に囲まれ、屋敷と高倉の他、牛小屋などがあったといいます。当時は大家族だった上、本家だったこの家には行事ごとに大勢の親戚たちが集まったそうです。しかし建物も防風林もすでになく、敷地は背丈を超す草に埋もれ、屋敷の名残りをとどめていたのはわずかに古井戸だけでした。

「農家で食えなくなった分、子どもらにはどの家も手をかけました。余裕があれば高校から島の外に出しました。ですが学校を出れば島には戻ってこないのです。」

 壁のような草に向き合ったまま、78になるご主人はそんなことを話してくれました。


※写真は旧所在地に残る古井戸と三つ石(平成27年)