第二十六話「湾岸戦争以来じゃ」

日本刀を改造したナタ「ササイタワリ」

 民俗調査における聞き取りとは、簡単に言えば対話です。目的に応じてテーマを設け、それに基づいて質問と応答という対話を繰り返していくわけです。相手が興に乗ると話の道筋が逸れがちですので、それを軌道修正する技術も重要です。しかし私は、何か聞きたい話があるなら、相手の話したいことも聞かなければいけないと考え、耳を傾けるようにしてきました。高齢の方の場合、話したいことの一つは戦中戦後の話です。他の研究者からも、戦争のことになると話が止まらなくなって大変だという声を聞いたことがあります。そしてもう一つは、これは高齢者に限りませんが趣味の話です。

 長野県佐久穂町の佐々木家のご当主は日本刀のコレクターでした。薄暗い蔵の中で、怖いように光る刀を何振りも抜きながら、入手した際のエピソードを延々と語ってくださったのを思い出します。もっとも、佐々木さんの話は趣味の範囲だけにとどまるものではなく、暮らしと刀との関わりも垣間見られて大変興味深いものでした。佐々木さんは刀も一つの財産だったと言います。もともと佐々木家には長持いっぱいに三十振り以上の刀があったそうですが、近所の人たちがもらいに来てほとんど譲ってしまったのだそうです。譲り受けた人はそれを鍛冶屋に持ち込み、「ナカゴ(茎。柄に差し込む部分)」を「へ」の字型に曲げてもらうと同時に、先端部分を切り落としてもらいました。こうして出来上がった細身のナタは「ササイタ(笹板)」と呼ばれる屋根板を割るのに使われ、切り落とした先端部分も小刀にして利用したそうです。

 このように、農家や商家でも刀を持っていた家は少なくありませんでした。以前触れた山形県の菅原家や長野県の三澤家のように、刀や槍を二階に隠し、盗賊に備えていた家もあります。しかし一方で、刀は恐ろしいものという意識もあったようです。神奈川県川崎市の清宮家には「村雨」とされる刀が伝わっていました。しかし、抜くと血を見なければ収まらないと言われ、気味が悪いので古道具屋に持ち込みナマクラ刀と交換してしまったそうです。山梨県甲州市の広瀬家にも二振りの刀が伝わっていました。うち一振りには、手にすると魔が差して悪いことが起こるという言い伝えがあり、そのため置き場所がなく棟木に縛り付けて保管していました。敵から身を守ると同時に、ひとたび手にすれば恐ろしいことになる。これらの話は武器というもの、争うということの本質を伝えているように思えてなりません。

   * 

 もう30年も前のことになります。私は当時別の博物館に勤めていましたが、企画展で弘法大師信仰を取り上げることが決まり、担当者が手分けして四国まで調査に行くことになりました。その際、私が受け持ったのは徳島県から高知県の室戸まででした。

 室戸岬の近くに宿を取った翌朝、荷造りを終えて出ようとすると主人が見送りに出てきてくれました。これから登る岬を見上げ、「道がきつそうですね」と言うと、「ええ、きついで」と言います。そして、「昔はあちらにも道があったんじゃよ」と、海にせり出した斜面を指さして教えてくれました。今でこそ遍路のルートはおおよそ定まっていますが、昔は幾通りもの道があったのだそうです。

「このあたりは台風もひどいのでしょうね」

「それはひどいで。風がひどくて、どの木も刈り込んだように丸くなるで」

主人はそう言って笑いましたが、ふと真顔に戻ると、岬の先を見たままこんなことを言いました。

「それでも近ごろは台風も来なくなったじゃろう。ええ。どういうもんか、あの湾岸戦争以来じゃ」

 湾岸戦争が起こったのは1991(平成3)年、私が室戸を訪れた3年前のことでした。クウェートに侵攻したイラクに対し、アメリカを中心とする多国籍軍が「Operation Desert Storm(砂漠の嵐作戦)」を開始したとき、何かが変わったことを宿の主人は感じたのでしょう。実際には温暖化の影響で気候の変動が始まっていたのかもしれません。しかし、その人のなかではなぜか、遠い異国の戦火が台風の進路に影響を及ぼしたように感じられたのです。アラビア半島の砂漠を吹き渡った風、それが室戸岬に届き、10年後の2001年にはその風がまわりまわってニューヨークに届いたことを世界は知ったのでした。アメリカ同時多発テロ事件です。


 こんな昔の話をなぜ思い出したか。それは、ウクライナに続きパレスチナでも戦争が始まり、一向に終息する気配がないためです。この原稿が書き上がる頃にはおそらく、イスラエルの地上部隊がガザ南部まで展開していることでしょう。地理的にどんなに離れていようと、ひとたび戦争が起これば無関係でいられる場所はどこにもない。そのことを、宿の主人の言葉は教えてくれたのでした。