第二十七話「みつやさいだあ」


 この3月、私は21年勤めた日本民家園を定年退職しました。前の職場を含めると、博物館で33年間すごしたことになります。どんなことであれ30年も続ければそれなりの域に達するものでしょうが、恥ずかしながら私は日々の業務に追われるだけで終わってしまいました。

 在職中、私が最も力を入れたのは、古民家の旧所有者を訪ね、住まい方について聞き取りを行うことでした。園内の建物は全部で25棟、年に1棟のペースでは25年かかってしまいます。ご家族の高齢化を考えるとそれではとても間に合いません。そのため年に2棟取り組むことにしましたが、いざ聞き取りに入ると、去年来てくれればあの人が生きていたのにと、そんな言葉を何度も聞くことになりました。

 こうした状況のなか、私は幸いにも百歳の方二人にお話を聞くことができました。今回と次回の2回に分け、そのことについてお話ししましょう。

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 工藤ソノさんは旧工藤家住宅(岩手県紫波郡紫波町、国指定重要文化財)移築時のご当主、礒吉さんの奥様です。明治41(1908)年生まれ、私がお訪ねした際ちょうど百歳でした。まず驚いたのは補聴器も使わず、はっきりした声で受け答えしてくださったことです。ただ残念なことに方言が聞き取れず、同席してくださった五男の宗吾さんに「通訳」していただきました。実はこれには後日談があります。聞き取りは二日間行いましたが、翌日は宗吾さんがいらっしゃらなかったのです。なんとか質疑はできたものの、困ったのはテープ起こしです。途方に暮れた挙句、岩手で生まれ育ち、昔話の語りを続けている大平悦子さんに「翻訳」をお願いしました。工藤家の報告書が出来上がったのは宗吾さんと大平さんのおかげです。

 さて、ソノさんの話に戻りましょう。工藤家のある岩手県紫波町は、雪こそ少ないものの冬が長く、気候の厳しい土地です。タイ米を緊急輸入した平成5(1993)年の冷夏はまだご記憶の方も多いでしょうが、工藤家はそうした不作、昔の言葉で言えば飢饉をくりかえし経験してきた家なのです。民家園には工藤家から寄贈された米びつが展示されています。奥行97cm、幅199cm、高さ94cmという巨大なもので、この中に米のほか小麦や大麦などの穀類を蓄えていました。いずれも虫が付きやすいので、入れる前によく乾燥させ、虫よけにサンショウの枝を入れたそうです。この米びつは宝暦9(1759)年の墨書のある江戸時代のものですが、工藤家には米を常に蓄え、1年前のものではなく2年前の古米から食べる習慣が昭和50年代まで残っていました。古い米は洗うと濁り水が出ましたが、炊くときに砂糖を加えたり、サラダ油をたらしたり、おいしく食べるためいろいろ工夫したと言います。

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 民家園には北国の古民家が多いので、冬のあいだ出稼ぎに出た家が少なくありません。 工藤家もその一軒です。「酒屋稼ぎ」といい、酒を仕込む杜氏としてご当主の礒吉さんは毎年家を離れていました。出稼ぎ先は樺太(サハリン)です。 太平洋戦争の終わり頃、船がなくなるから早く帰ってこいと、ソノさんは手紙や電報で何度も促しました。しかし、仕込みが終わらないからと帰ってきません。そのうち、いつも使っていた青森行きの便がほんとうになくなってしまいました。このとき礒吉さんは新潟行きの貨物船にもぐりこみ、からくも本土まで帰り着いたそうです。 

 こうした主のいない冬、女手一つで家族と家を守るのがどれほど大変なことだったか、今の私たちには想像することもできません。礒吉さんは酒屋稼ぎに出たまま何年も帰らないこともありました。夏場、農業で稼ぐよりお金になったからです。そうなると、農作業もソノさんが一人で担うことになりました。余程丈夫でない限り体力が続かないでしょう。しかしお話をうかがうと、ソノさんは体が弱かったというのです。昭和40年代まで集落には診療所もありませんでした。そのため体調を崩したときは、収穫した作物を出荷する宗吾さんと一緒に、町場の病院まで馬車で通ったそうです。

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「好きなものは何ですか?」

聞き取りの最後に、ソノさんに質問してみました。百歳まで生きる「秘訣」のようなものが食生活にあるのでは、そんなふうに思ったのです。すると、少しはにかみながらこう答えてくれました。

「みつやさいだあ」

おそらく、当時三ツ矢サイダーは高級品で、たまに口にするその炭酸飲料がことのほかおいしく感じられたのでしょう。果樹栽培をしている工藤家ではブドウやリンゴのジュースを作っていますが、それらは飲まず、ずっと三ツ矢サイダーなのだそうです。昔はガラス瓶だったので箱で買い、食欲がないときはそれだけだったとも言います。私はおだやかな表情と向き合いながら、北国の女性がたどってきた百年の月日を思いました。


※写真は工藤家のリンゴ畑(平成20年撮影)